その11 ・・・ 思い出すこと、忘れる事の意味について
本日はサーフィンの日ですが、台風18号の影響で、クローズアウト(沖に出るのが不可能)、サーフィン禁止なので、今年の初めに書いた未公開エッセイを載せます。
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ニュースで今日、阪神淡路大震災からまる19年が経ったと言う報道があった。
その時の事は覚えている。
その時僕は単に会社の事務所で事務処理などをしていた。今では考えられないなんと、営業マンであった。
応接室に部長を含めみんな集まってテレビを見ていた。
その時僕は自分の机にいたが、
「いやあ、これはすごい、マジかよ、」
とか言っている先輩の声につられて、テレビの前に行った。
そこには、ひっくり返された哀れな高速道路や、あちこちでの火事の煙がモクモクと画面を覆ってまるで戦争で襲撃された街の姿があった。
これは、きっと僕が生まれてこの方リアルタイムで見る、日本で一番の大惨事であっただろう。
それだけたったテレビの画面でも鮮明な記憶が残っている。
「震災を忘れない、忘れられない」
こんなフレーズをキャッチにして、このイベントは行われた。阪神淡路大震災の追悼集会が神戸市東遊園地で行われたらしい。
皆がロウソクを1.17の大文字にともし、周りを囲み、故人を偲んでいる。この記憶を忘れない事が個人への弔いと言う風に思う人間の気持ち。
理屈なく、とても大切な事だと思うし、これは解るつもりだ。
でも、忘れた方がいい事(部分かも知れない)もあるのではないのか。
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経験として、のちに伝えなければならない大きな出来事はもちろんある。でもテレビに映る50代くらいの女性は、
「あの子の事を思うと、今でもとても可哀想で悲しくなります」
とカメラの前で泣いていた。
この行事が、彼女に悲しい想いを思い出させて、また悲しみを甦らせているのだ。
人間は(動物もそうかも知れないが)、思い出すことによって、記憶を保持する生き物だと思う。単純な話、悲しい記憶を保持する事がその人のプラスになるのか。
つまり、これ(追悼集会)は良い事なのだろうか?
もし故人が天国から見ていたら、どう思うだろうか?
「私はもう死んでしまった。それを悲しく思って暮らすより、お母さんは生きているんだから、もっと前を向いて、残りの人生、楽しみ、喜びを見つけて生きて欲しい」
そう思うのが普通ではないだろうか?「私が無くなった事を悲しんでくれて嬉しい」と思うだろうか。
もちろん、故人を偲ぶことが間違っていると言う気持ちは毛頭ない。でもひょっとして、自己満足の世界になっているのではないか。もっと故人の気持ちを慮り、考えてあげるのが本当の人情ではなかろうか、と思う。
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一時期、英会話レッスンが無料で受けられると言う事で、モルモン教(アメリカ発のキリスト教の宗派)の教会に通っていた時期があった。
そこでは、宣教師と呼ばれるアメリカ人の若者たちが、結構面白く英語のレッスンをやっていた。僕も良く行っていたので、彼らと仲よくなり、ある日入信を勧められた訳である。
「モルモン経」
と言う分厚い、聖書のモルモン版みたいのも貰った。
ビデオを見せられたり、偉い人が来て説得させられそうになったり、変な空気になったのは否めない。その時はどうやって逃げるか、と考えていた。
しかし、その中で、「うーん。なるほど」と納得せざる得ないものがあったのだ。
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一本のビデオが当時20代だった僕を考えさせた。
キリストの教えの一つ「他人を許しなさい」と言うものがテーマだったと思う。あとは「悔い改めよ」とも言われる。右のホホを打たれたら、左を差し出しなさい、などある意味マゾヒスト的な教えとも思える内容には、実は以外と深い意味があった様なのだ。
「他人をいちいち許してたら、付け込まれるのがオチだし」
怒る時は怒る、場合によっては制裁を下す、って感じで攻めの姿勢のがナメられない方法かと思っていた。
大体みんな社会に出たらそのくらいに考えているのが普通。そうでなかったら、よっぽどお人好しって思いませんか?
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そのビデオは、ある放蕩息子(どうしようもないバカ息子)についての聖書にある有名な話をドラマ化したものだった。
兄と弟が出てくるのだが、兄は勉強とか何でもできる優等生。出来の悪い弟は高校生くらいから不良になって、暴力、ドラッグやギャンブルに走って、ある日家を飛び出した。
弟がいない間、その兄は何時も両親に尽くして両親もそれに感謝していた。兄は弟が何処で何をしているか分からないが、もう、あんな奴に頼る事はないし、さんざん家族に迷惑を掛けた彼が居なくなって少しホッとした、と思っている。
しかし、当然両親は弟の事をいつも心配している。どこで何をしているのか。。。
弟は何年もの間ドラッグ中毒や、投獄されたり文字通り悪い人間の道を歩いて行った。
しかし、5年後のある日、突如両親の元に帰って来たのだ。
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その時、彼は全てを払しょくしていた。もうドラッグはやらないし、悪い奴らとも手を切った。
実はピアノを最近練習していて、お母さんの誕生日の歌を作ったんだ、と母に言った。
兄は(今さら良くそんなに平気な顔で帰って来て、ふざけるのもいい加減にしろ!)、と弟を迎えながら心の中では思っていた。
(自分は今まで家族を支えてきた。お前はいったい今まで何やってたんだ、この馬鹿者が!)
兄の怒りは収まらない。
しかし、家族以外でも近所の人たちもみんな、5年ぶりに帰って来た弟に、
「よく帰って来たな、一人で辛くなかったか?」
「お母さんはあなたが無事に帰って来てくれた事がとても嬉しい」
と歓迎した。
「ああ、僕はとてもみんなに迷惑を掛けた。でももう立ち直ったんだ」
弟はみんなを前にして、堂々と言った。
「そうか!すごいじゃないか。良かったよ!」
みんなが口々に彼を祝福する。
そして、母の誕生日パーティーの時、弟は自分で作った「お母さんの歌」をピアノの弾き語りでみんなに披露した。みんな彼が見違えって帰って来た事と共に大きな拍手を送った。
それを見ていた兄は一人部屋にこもり、とても苦しい、憎しみの気持ちが湧いてゆく。今まで散々バカな事やってきて、今さら突然帰ってきて、何だよこれ!今までお父さん、お母さんを支えてきたのは俺なのに。。。
兄は悔しさで涙が出た。
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こんな時に兄はどうするべきなのか。
人情的に、今まで散々好き勝手やってきた弟が、今さら突然帰ってきて、welcome!なんて迎えられるはずもない。しかも、自分の周りの人達が、彼を祝福している事実。彼にとっては理不尽極まりないはずだ。兄は孤立する。
しかし、今の彼の感情は、自分にとって不利なのだった。それが現実だ。みんなが歓迎する中、自分だけ弟を恨んでも、自分に何の得もない。
ビデオでは、暗に、
「許す心を持ちなさい。それがあなたの為なのです」
と諭している。そこで弟に恨みや妬みのマイナスの感情を抱いても、何のあなたの得にはならないですよ、と。
どんな悪い事、嫌な事をされても、もしその人が悔い改めたなら、それを忘れてあげた方があなたの為だ、と。
確かにここで、兄が素直に弟を迎え入れてやる事が出来たら、どんなに素晴らしい人間で、これからの家族もきっと良い形で暮らせるはずだ。
何と現実的な教えである事か。
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正直そのビデオを見たとき、ちょっとショックだった。
何故なら僕の中では、宗教とは結構理想郷を唱えている教祖に着いて行く教徒、って図があったので。しかし、なんと現実的な、と言うか逆にドラスティックな考え方かなと。僕はそこまで現実に則した考え方は出来ない。感情がどうしても優先してしまう。弱い人間なのかも知れない。
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